— 物語 —
ふと、目が覚めた。
雪丸が瞼を開くと、隣にいるはずの黙朗の気配がなかった。
布団に、黙がいない。
大福はまるく丸まって、すうすうと寝息を立てている。起きる気配はない。
雪丸は音を立てずに障子の隙間をくぐった。
———
縁側を渡り、ご神木のそばまで来ると——いた。
黙朗が、琥珀の前に座っていた。
正座ではない。膝を抱えて、少しだけ前のめりに。眼鏡はかけていなかった。
唇が動いている。何かを、琥珀に向かって呟いている。
声は聞こえない。聞こえないように話しているのか、風が攫っているのか。
雪丸はそれ以上、近づかなかった。
木の幹に背をもたれ、少し離れた場所に座る。
月はなかった。雲が厚い夜だった。
それでも琥珀は——ほんの微かに、灯っていた。
黙朗が話すたびに、その灯が揺れるように見えた。
まるで、聴いているように。
———
どれくらい経ったか。
黙朗が立ち上がった。膝の土を払って、振り返らずに社のほうへ歩き出す。
雪丸は先に戻った。黙朗より早く、布団のそばに丸くなった。
障子が小さく開く音。裸足が畳を踏む音。布団に潜り込む音。
「……ん、」大福が寝ぼけて鳴いた。「黙ちゃん……つめたい……」
「……ごめん」小さな声。
大福がもぞもぞと黙朗のほうへ寄っていく。すぐにまた寝息が聞こえた。
雪丸は何も言わなかった。
何を話していたかは、聞かない。
ただ——眠りに落ちる前、雪丸はそっと黙朗の髪に額を寄せた。
———
ご神木の根元で、琥珀はまだ灯っていた。
黙朗が眠ったあとも、しばらくのあいだ。
誰にも見えない場所で、静かに、ひとりで。
——まるで、返事をするように。
了