— 物語 —
朝の物置は、いつもより寒い。
黙は棚のいちばん下の段を引き出して、古い箱をひとつ、ひとつ、開けていた。何かを探しているわけではなかった。ぼく――大福には、それがわかった。探しものをしている人の手は、もっと急いでいる。黙の手は、ゆっくりだった。思い出のなかを歩く速さだった。
埃が、窓から差す光の筋のなかを泳いでいた。ぼくはその光のあたるところに陣取って、おなかをあたためながら、黙の手元を見ていた。
「あ」
小さな声がした。
黙の手のなかに、布包みがあった。よれた木綿で、何重にも巻いてある。ほどく指が、すこし、慎重だった。
なかから出てきたのは、片方だけの手袋だった。
子どもの手のひらくらいの小さな手袋。色はもう、もとが何色だったのかわからない。陽に灼けて、洗われて、しまわれて――褪せたというより、時間そのものが沁み込んだような色をしていた。
「……忘れてた」
黙はそう言ったけど、忘れてたものを持つ手じゃなかった。
———
ぼくは、それが誰のものか、聞かなかった。
黙の目が、物置の壁の、ずっと向こうを見ていたから。ぼくらの知らない、遠い時間のほうを――黙が長いあいだ、ことばにしないで抱えてきた何かを、見ているような目だったから。
「片っぽだけなんだよ」
黙は笑った。困ったみたいに笑う、いつものやつだ。
「両方あったらね、片方なくしたって、ちゃんと気づける。"あ、なくした"って。でも片っぽだけだと、わかんなくなる。なくしたのか――もともと、片っぽだけだったのか」
ぼくには、むずかしいことはわからない。
でも、黙がときどき、ことばにしないで抱えている、あの、なんていうか……おっきくて、かたちのないもの。その、はしっこだけが、いま、ぼくにも見えた気がした。
なくしたものなのか、はじめからなかったものなのか。
———
わからないまま、それでも捨てられない。
そういうものを、黙はいくつも抱えて生きている。
———
だからぼくは、飛んだ。
光のあたる場所から、黙の手の上へ。手袋の、すぐとなりへ。
黙の手は、あったかかった。ぼくのおなかも、たぶん、あったかかった。黙の指が、ぼくの羽のあいだに、ゆっくりもぐってきて、そこで止まった。
「……あったかいね、大福」
ぽう、とぼくは鳴いた。
そうだよ。ここにいるよ。
———
ぼくは片っぽじゃない。ちゃんと、まるごと、ここにいる。
しばらく、ふたりとも、何も言わなかった。
窓の光だけが、すこしずつ、傾いていった。
———
気づいたら、物置は夕方の色になっていた。
黙は手袋を、もとの布で包みなおした。ていねいに、何重にも。でも、棚の奥には戻さなかった。箱の、いちばん上に置いた。次に開けたとき、すぐ目に入るところに。
「ごはん、食べよっか」
黙が立ち上がる。ぼくは肩までのぼって、おちないようにつかまった。
戸を閉めるとき、黙はもういちどだけ、あの箱のほうを見た。
なくしたものは、もどってこない。
はじめからなかったものは、なおさら、もどってこない。
でも――忘れないでいることは、できる。
ぼくは、それを、黙のかわりにずっとおぼえてる、って決めてる。
ことばにはしないけど。ぽう、って鳴くだけだけど。
それでも、おぼえてる。
黙が忘れないでいたいものを、ぼくも、ぜんぶ。
了