— 物語 —
夜の二時である。
こんな時間まで起きているのは、線が一本、決まらなかったからである。
窓の外で、蝉が一匹だけ鳴きそこねて、また黙った。扇風機が首を振っている。机の端の水差しに、灯りがちいさく映っていた。
黙は、描きかけの紙を一枚、くずかごに落とした。今夜、これで三枚めである。線が思ったところへ行かなかった。ただそれだけのことである。
紙は、かごの底で乾いた音を立てた。
それから、もう一度、音を立てた。
大福が首をかしげた。
「黙ちゃん、いま、なんかいた?」
「気のせい」
「そっか」
大福はそれ以上聞かない。聞かないのが大福である。
雪丸は聞いた。
「見せて」
「捨てたやつ」
「捨てたやつが動いてる」
くずかごの底で、途中までしか引かれていない鳥のようなものが、片方の翼だけを、ゆっくりと動かしていた。もう片方は、描かれていない。動くたびに、紙が底で小さく鳴った。さっきの音は、これである。
黙が描いたものには、命が宿る。
完成させたものにも、させなかったものにも、区別なく宿る。線一本でも、宿るときは宿る。そこが困るのである。
黙は立ち上がって、押入れの前に行った。
そこで、少し止まった。
襖に手をかけてから開けるまでに、扇風機が二度、首を往復した。開けると、夏でもここだけは、すこし冷える。奥のほうの空気は、いつ入れ替えたのか、黙にも分からない。
奥から出したのは、菓子の空き箱である。もらい物の、蓋の絵が半分すれた古い箱。三年ぶんの埃が、指のあとのかたちに残っている。持ち上げると、見た目より重い。
蓋を取ると、中は静かではなかった。
線だけの魚が一匹、水もないのに、紙の上を横切っていく。何度も同じところを行き来しているので、その部分だけ紙が薄い。
目のない犬は、音のするほうへ顔を向ける。黙が息をすると、そちらを向いた。何を見ているのかは、犬にも分かっていないと思う。
口だけ描かれたものが、一枚あった。ときどき、何か言いかけて、やめる。黙がこれを描いたころは、まだ声というものを、うまく知らなかった。だから言葉は、いちども出てこない。
片方の目だけが、こちらを向く紙もある。もう片方は、描くまえに手が止まった。見られている気は、しない。ただ、見えているのだと思う。
輪郭だけの、何か。手足がいくつあるはずだったのか、黙はもう覚えていない。いちばん古くからいて、いちばん動かない。けれど触ると、あたたかい。
いちばん下に、一枚だけ、動かなくなったものがある。
黙はそれも捨てていない。
「名前は」と雪丸が言った。
「つけない」
「なんで」
「つけたら、いなくなったとき、呼べるから」
雪丸は羽をふくらませて、それから、元に戻した。
大福が箱をのぞきこむ。
「みんな、さむくない?」
「わかんない」
「じゃあ、ぼくのっとくね」
大福は蓋の上にもっちりと座った。「あったかいほうがいいもん」
黙はくずかごに手を伸ばした。
拾い上げて、机に戻す。
筆の先が紙に触れても、鳥のようなものは、逃げなかった。
そして、描かれていなかったほうの翼を、描いた。
完成させるためではない。
片方だけでは、寒かろうと思ったからである。
紙の上で、鳥のようなものが、両方の翼を動かした。
黙はそれに名をつけなかった。
名がなくても、ここにいられることを、黙はよく知っている。
了