— 物語 —
朝、黙はやかんに伸ばした手を、途中で止めた。
昨夜、水出しの茶を仕込んでおくはずだった。腰が痛くて横になり、そのまま眠ってしまった。冷蔵庫を開けても、冷えた茶はない。庫内灯が、しずかに光っているだけだ。
「……忘れてた」
声に出すと、忘れたことが、少しだけ軽くなった。
コップに水道の水を注ぐ。蛇口をひねると、古い管が低くうなって、透明な水が満ちていく。冷たくはない。ぬるい、ただの水。夏の朝の、味も素っ気もない一杯だ。
口をつける。
黙は、コップを少し離して、水面をのぞいた。
匂いがした。かすかに、けれど、たしかに。塩素の匂いではない。土の、苔の、湿った木の根の――森の、奥のほうの匂い。ずっと昔、旅の途中で口をつけた、岩のあいだから湧く水。あれと同じ匂いだった。
社の、ただの台所の水道である。
けれど黙は知っている。この社の下には、御神木の根が、地の底まで伸びていることを。琥珀を抱いた、あの大きな木の根が。
水道の管が、どこかでその根に触れているのかもしれない。地下を巡る水が、根のあいだをくぐって、朝ごとに蛇口まで昇ってくるのかもしれない。そんなはずはない、と思いながら、そうであってほしいと思う自分もいた。
シキが、卓の端から水面をのぞきこんだ。
「黙さま。……この、お水」
「うん」
「森の、におい、しますね」
シキにも、わかるらしい。黙は少し笑った。
大福が、ぽてっと膝にのる。
「ポウ。ぼく、このみず、すき。あったかくないけど、なんか、やさしいあじ」
黙は、ぬるい水を、もう一口。
たしかに、やさしい味だった。冷たい茶では、気づかなかったかもしれない。ぬるいから、匂いが立った。忘れたから、この水を飲んだ。仕込みを忘れた昨夜の自分が、今朝の一杯を、ここへ連れてきたのだ。
「……忘れて、よかったのかも」
窓の外は、もう夏の光だった。
コップの底に、水の匂いだけが、しずかに残っていた。
了