— 物語 —
障子を開けたら、大福が平たくなっていた。
雪丸は一度、目をこすった。もう一度見た。やはり平たい。
日の当たる畳の上に、白い塊がある。その塊の上に、灰と銀の縞をまとった猫が座っている。座って、前足で、ゆっくりと押していた。右、左、右、左。ずいぶん熱心である。
押されるたびに、下の白い塊から「ぽう」と息が抜けた。
「大福」
「……ぽう。あ、ゆきまる」
「おまえ、それ、いいのか」
「いいよう」
大福は目を細めたまま言った。押されて、また少し平たくなった。
シキは手を止めない。雪丸のほうを見もしない。ただ黙々と、前足を交互に沈めている。金色の目は半分閉じていて、ここではないどこかを見ていた。
「シキ」
呼ぶと、耳だけがこちらを向いた。
「はい。ゆきまるさま」
「それは、何をしている」
「わかりません」
シキはたいへん丁寧に答えた。丁寧に答えながら、まだ押していた。
「きがつくと、しております。……だいふくさまが、やわらかいので」
「やわらかいから、押すのか」
「はい。おしたく、なります」
理屈になっていない。しかし猫の言うことが理屈になっていた例を、雪丸は知らない。
そもそも、この猫を「シキにゃん」と最初に呼んだのは大福である。
来たばかりの頃、まだ名前は決まっていなかった。縁側に白がみっつ並んで、黙が湯呑みを持ったまま迷っていた、あの日である。決まるより先に、大福が「しきにゃん!」と言った。名前のほうは、そのあとで黙が「シキ」と呼んで決まった。
以来、シキにゃんになった。
シキ本人は、それを一度も訂正していない。訂正しないどころか、大福に呼ばれると必ず返事をする。雪丸が呼んでも、耳が動くだけのことがある。
順番というものが、たぶんこの猫の中にはある。
雪丸はそのまま、庭へ出るつもりだった。
出るのだから、鳥の姿のほうが早い。そう思って、姿を戻した。
畳に降りた瞬間、背後の空気が変わった。
振り返る余裕はなかった。灰と銀が、平たい大福の上から音もなく消えていた。消えて、こちらへ来ていた。
「――待て」
待つわけがない。
雪丸は逃げた。廊下を走った。柱を回った。後ろから、爪の当たる乾いた音が追ってきた。さっきまで「わかりません」と言っていた生き物の音ではなかった。
縁側の手前で、雪丸は人間の姿に戻った。
音が、止んだ。
見下ろすと、シキが座っていた。ぴたりと座って、こちらを見上げていた。金色の目には、もう何もない。
「……あら」
「あら、じゃない」
「ゆきまるさま。いま、そこに、しろい、ちいさいのが」
「俺だ」
「まあ」
シキは前足を舐めた。何事もなかったという顔をしていた。
雪丸は息を整えた。整えながら、この猫の中には二人いるのだと思った。二人いて、どちらも嘘をついていない。それがいちばん厄介だった。
廊下の奥から、ふーっと空気の膨らむ音がした。
大福が、元の丸さに戻っていた。
「ぽう。ぼく、ぺったんこだった」
「痛くないのか」
「いたくないよう。あったかいだけ」
大福は羽をふくらませて、また少ししぼんだ。ふくらんだりしぼんだりして、形を確かめている。
「しきにゃんね、ぼくのおなかで、おかあさんのゆめ、みてるんだよ」
雪丸は黙った。
「ちいさいころ、そうやってたんだって。だから、ぼくのとこにくると、ちいさいころになるの」
大福はそう言って、あくびをした。難しいことを言った自覚は、たぶんない。
雪丸は、足元のシキを見た。
見て、しゃがんで、両腕を差し入れた。
重い。
想像していたのより、はるかに重い。腕の中でずしりと沈んで、そのまま落ち着いた。あたたかい。骨があって、肉があって、息をしている。
さっきまで自分を狩っていたものと同じ重さだとは、どうしても思えなかった。
「ゆきまるさま」
「なんだ」
「わたくし、さきほど、おいかけて、しまいました」
「……いいよ」
「よろしいのですか」
「よくはないが、まあ、いい」
シキは、腕の中で少し身じろぎした。
それから、前足を出した。
雪丸の腕を、押した。右、左、右、左。
「おい」
「はい」
「それをやるな」
「はい」
やめなかった。
爪がわずかに引っかかる。痛いというほどでもない。ただ、動けない。追いかけられていたときは走れたのに、いまはどこにも行けなかった。
廊下の向こうで、大福が丸くなっていた。
「ゆきまる、かおがあかいよう」
「うるさい」
「ぽう」
日が傾いて、畳の目に長い影が伸びた。
腕の中で、押す力がだんだん弱くなっていった。弱くなって、間があいて、やがて止まった。
雪丸はしばらく、そのまま立っていた。
立ったまま、片方の腕がしびれてきたのを感じていた。それでも、下ろさなかった。
了