— 物語 —
洗面所の鏡に、黙が顔を寄せる。
前髪を指でつまんで、持ち上げて、離す。落ちてきた毛先は、まつげの上で止まった。もう一度つまむ。今度は横に流してみる。流したそばから、はらりと戻ってくる。
「のびたな」
頭の上から、雪丸が言う。鏡の中では、白い鳥が黙の頭に載っている。
「明日、切りに行く」
「どのくらい」
「行ってから決める」
雪丸は、それ以上きかなかった。鏡の中で、首だけをかしげている。かしげたまま、自分の額の羽を、くちばしでひと撫でした。気づいたのは、黙だけである。
黙は何も言わずに、手を洗う。水の音のあいだ、雪丸はもう額を撫でなかった。
大福が、足もとから見上げていた。いつからいたのか、洗面台の下、タオルの陰。白いので、タオルとあまり見分けがつかない。
「ぼくも、きってもらう〜」
「どこを」
「えっとねえ、ここの……ふわふわの、とこ」
胸の羽に、くちばしをうずめる。うずめたまま、出てこない。そのうち頭までふわふわに沈んで、どこからが大福で、どこからがタオルなのか、いよいよ分からなくなる。
「切るところがないだろう。全部、丸いんだから」
「そっかあ〜」
大福は、うれしそうに体ごと傾いた。傾いて、そのままタオルにもたれて、起きてこない。
黙はタオルごと大福を持ち上げて、洗面所を出る。
◇
居間にもどると、シキがソファの背で待っていた。
前足をそろえて、しっぽを体に巻いている。黙の顔を見て、それから、腕の中のタオルを見た。タオルの端から、白いものがはみ出している。
「……大福さまで、ございますか」
「たぶん」
タオルの中から、寝息がひとつ。
黙がソファに腰をおろすと、シキは背からしずかに降りてきた。黙の顔を、下から見上げる。
「黙さま。あしたは、へあ……へあー、か……」
そこで止まる。しっぽの先だけが、言葉をさがすように揺れた。
「……おでかけで、ございますね」
「うん」
「では、わたくしも、身だしなみを」
前足をそろえて、胸の毛をていねいに舐めはじめる。ひと筋ずつ、順番に。肩、胸、前足の先。舐めおわると、黙の膝に移る。黒い部屋着に、白い毛がひとすじ残った。
黙はそれを指でつまんで、少し考えてから、そのままにした。
膝の上には、タオルの大福もいる。シキは少しだけ身を寄せて、その上に前足をのせた。のせた前足が、ゆっくり押す。もう片方も、押す。
「……はしたないことで、ございます」
そう言いながら、前足は止まらない。押されるたびに、タオルの中の丸みが、すこしずつふくらんでいく。洗面所で沈んでいたぶんのふわふわが、戻ってくる。
大福は起きない。寝顔のまま、くちばしの端がゆるんだ。
◇
寝る前に、机の灯りをつける。
ソファには、タオルとシキがひとかたまりになって、寝息をたてている。
紙の上の子は、肩より長い髪をしていた。
黙はしばらく、その髪を眺めていた。それから消しゴムを取って、毛先をすこし落とす。もうすこし。紙の上で、消しくずが小さく丸まる。肩が見えて、首が見えて、耳の下で、止めた。
鉛筆に持ちかえて、切ったばかりの毛先を描きなおす。まっすぐではなく、ほんの少し内側へ。顔のまわりが、急に明るくなった。
ついでに、髪の色も明るくしてみる。目の色も、青く。
雪丸が、机の端に降りてくる。紙をのぞきこんで、しばらく何も言わなかった。
「先に、その子を切ってやったのか」
「うん」
「似合ってる」
「でしょ」
雪丸は、もう一度紙を見て、それから黙の前髪を見た。何か言いかけて、やめる。
「明日のは、明日の黙が決めればいい」
「うん」
黙は灯りを消した。
明日は、黙の番だ。
了